2014.08.30
地獄の在り処 その2
こんにちは。スマイラです。

昨日の話しの続きです。
市の「平和の集い」でお話をお聞きした戦争体験者の方がした満州での経験は、まさに「地獄というべきもの」というところまで書きました。
この方のお話では、ソ連が「日ソ不可侵条約」を破って参戦し、終戦を迎え、ソ連軍が入ってきてからの満州は、地獄絵巻さながらです。
街中では平然と日本人を射殺し、その身から腕時計を盗り、女性と見れば見境なく凌辱されました。そのため、女性は坊主頭にして顔を黒く塗り男性のふりをしていたそうです。
「誰も頼りにならない。誰も守ってくれない。殺されても文句は言えない。日本政府は満州を見放した。戦争に負けるとはこういうことかと思った。」という言葉を、グッとくる思いで聞きました。
日本だけではないのでしょうが、「国民の命と暮らしを守る」といっている日本政府は、南米への移民も、シベリア抑留もそうですけど、私の知るだけでもいろんなところでいろんな日本人を結構大人数で見捨てていますよね。
その割りに上官というか幹部というか、役職の高い人はきっちりと生き残って終戦後の豊かさを謳歌したり、高見の見物を決め込んでいるのですから「どういうものか?」と思わないわけにはいきません。
ところでこの人は、終戦の年の9月ごろに「家たのむぞ」と言い残されて、ソ連兵に連れていかれたお父さんと、二度と会うことはなかったそうです。
想像がつくでしょうが、お父さんはソ連で亡くなっていたのです。
お父さんが亡くなったことを知ったのは、終戦から20年ほど経ったころです。お父さんの隣のベッドにいたという人が知らせに来てくれたのだそうです。
奥様やお子さんを思いながら異国の地の果てで亡くなったお父さんの無念を思うと、言葉がありません。
お母さんは32歳で急死されたそうです。その前日には1歳の妹さんを亡くしているそうです。幼い娘を亡くしたお母さんも、お母さんと妹を立て続けに亡くしたきょうだいも、どれほど辛かったことでしょう。
凄絶な体験というしかないのですが、当時は日本中の多くの人がこのような体験をしているはずです。
何百万人、何千万人分もの悲しみと虚しさが、この国の天と地を行き交い、覆い尽くしていたかと思うと、そこまで突き進めさせたものを「狂気」と呼ぶ以外に、私は言葉を知りません。
そして、これが庶民の経験した「戦争」の実相ならば、やっぱりどういう論理を用いても、これを美化したり、「あの時代の方が幸福だった」とか「生き生きしていた」などと開き直らないのが真の強さなのだとと思いますし、「平和ボケ」などといって平和な時代とその時代の人たちを蔑むようなことをしてはいけないと思います。
そういう言辞を弄する人たちの多くが、今回お話しいただいた人の経験の万分の一ほどの辛い経験もしていないというのはまったく由々しきことです。
私が胸を突かれる思いをしたのは、この人が、終戦から70年近く経った今でも年に2~3回は寝ているときにうなされて喚いて飛び起きるときがある、と話したときでした。
たとえ地獄絵巻が目の前に見えなくなったとしても、幼い心に焼きついた地獄絵図は、いつまでも苦しみを与え続けるということなんですね。
この人はその後、日本に帰国し(といっても、満州生まれのこの人にとっては初めての日本「訪問」なのですが)、孤児になっていたために親戚の家に行くのですが、そこでも「穀潰し」呼ばわりされ「帰って来てからがまた一苦労だった」とおっしゃって、話しは終わりました。
まったく切ないお話ではありましたが、聞いた私ができる小さなこととして、ここに書かせていただきました。
ご相談はこちらからどうぞ!
お待ちしています!
多摩、府中のブランド・ネーミングなら
スマイラ特許事務所

昨日の話しの続きです。
市の「平和の集い」でお話をお聞きした戦争体験者の方がした満州での経験は、まさに「地獄というべきもの」というところまで書きました。
この方のお話では、ソ連が「日ソ不可侵条約」を破って参戦し、終戦を迎え、ソ連軍が入ってきてからの満州は、地獄絵巻さながらです。
街中では平然と日本人を射殺し、その身から腕時計を盗り、女性と見れば見境なく凌辱されました。そのため、女性は坊主頭にして顔を黒く塗り男性のふりをしていたそうです。
「誰も頼りにならない。誰も守ってくれない。殺されても文句は言えない。日本政府は満州を見放した。戦争に負けるとはこういうことかと思った。」という言葉を、グッとくる思いで聞きました。
日本だけではないのでしょうが、「国民の命と暮らしを守る」といっている日本政府は、南米への移民も、シベリア抑留もそうですけど、私の知るだけでもいろんなところでいろんな日本人を結構大人数で見捨てていますよね。
その割りに上官というか幹部というか、役職の高い人はきっちりと生き残って終戦後の豊かさを謳歌したり、高見の見物を決め込んでいるのですから「どういうものか?」と思わないわけにはいきません。
ところでこの人は、終戦の年の9月ごろに「家たのむぞ」と言い残されて、ソ連兵に連れていかれたお父さんと、二度と会うことはなかったそうです。
想像がつくでしょうが、お父さんはソ連で亡くなっていたのです。
お父さんが亡くなったことを知ったのは、終戦から20年ほど経ったころです。お父さんの隣のベッドにいたという人が知らせに来てくれたのだそうです。
奥様やお子さんを思いながら異国の地の果てで亡くなったお父さんの無念を思うと、言葉がありません。
お母さんは32歳で急死されたそうです。その前日には1歳の妹さんを亡くしているそうです。幼い娘を亡くしたお母さんも、お母さんと妹を立て続けに亡くしたきょうだいも、どれほど辛かったことでしょう。
凄絶な体験というしかないのですが、当時は日本中の多くの人がこのような体験をしているはずです。
何百万人、何千万人分もの悲しみと虚しさが、この国の天と地を行き交い、覆い尽くしていたかと思うと、そこまで突き進めさせたものを「狂気」と呼ぶ以外に、私は言葉を知りません。
そして、これが庶民の経験した「戦争」の実相ならば、やっぱりどういう論理を用いても、これを美化したり、「あの時代の方が幸福だった」とか「生き生きしていた」などと開き直らないのが真の強さなのだとと思いますし、「平和ボケ」などといって平和な時代とその時代の人たちを蔑むようなことをしてはいけないと思います。
そういう言辞を弄する人たちの多くが、今回お話しいただいた人の経験の万分の一ほどの辛い経験もしていないというのはまったく由々しきことです。
私が胸を突かれる思いをしたのは、この人が、終戦から70年近く経った今でも年に2~3回は寝ているときにうなされて喚いて飛び起きるときがある、と話したときでした。
たとえ地獄絵巻が目の前に見えなくなったとしても、幼い心に焼きついた地獄絵図は、いつまでも苦しみを与え続けるということなんですね。
この人はその後、日本に帰国し(といっても、満州生まれのこの人にとっては初めての日本「訪問」なのですが)、孤児になっていたために親戚の家に行くのですが、そこでも「穀潰し」呼ばわりされ「帰って来てからがまた一苦労だった」とおっしゃって、話しは終わりました。
まったく切ないお話ではありましたが、聞いた私ができる小さなこととして、ここに書かせていただきました。
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