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2013.01.22

擁護派への疑問 その2

こんにちは。スマイラです。

今日は「擁護派」の方々へのふたつ目の疑問を書きます。

その疑問とは「自分の経験を合理化していないか?」ということです。

人間が自分の過去の経験(特に辛い経験や嫌な経験)を合理化する力はものすごく強いと私は思っています。

たまたま、今日の朝日新聞の声欄にもこんな投書が載っていました。

「虐待を受けた子どもは『僕に悪いところがあるからお母さんはたたいたんだ。僕のためなんだ』と虐待した親をかばいます。暴力は、暴力を受けた人の心をマインドコントロールしてしまいます。」

私も含めて多くの人は、自分の経験を意味がなかったことだとか必要のなかったことだとは、なかなか思うことができないものです。

それはそれで、人間が生き抜いていくために身につけたひとつの本能というか、習性というべきものなのだろうと思います。

問題になっている顧問に体罰を受けた生徒やOBは、そのことを「仕方のないことだった」「自分のために必要なことだった」「あれがあったから今の自分がある」などと、自責化、合理化していないでしょうか?

けれども、この考えはとても危険だと私は思っています。

この論理を適用していけば、虐待も、いじめも、ハラスメントも(もっと大きな例を出すなら戦争も原爆も)、すべてが合理化されてしまいます。

その後に残るのは「力がすべてを支配する世界」です。

「虐待を受けた子が聞き分けがなかった」「いじめを受けた子が空気を読めなかった」「パワハラを受けた社員は上司のいうことを聞かなかった」と言ってしまっては、加害者はすべて免責されてしまいます。

それは「自分には被害が及ばないというあやふやな前提から生じる奇妙な物分りのよさ」とでもいうべき思想だと思います。

私はこの思想は本当に怖いというか、現代の最大の病だと思っています。

体罰も虐待もいじめもパワハラも、した側を「加害者」、された側を「被害者」とするなら、絶対的な権限を持った強者が加害者である場合(親、教師、顧問、監督、コーチ、上司などはすべてこれでしょう)、被害者側が加害者側の論理に巻き込まれてしまってはいけません。

幸運にも、いまだ被害を受けていない立場にいる我々が味方をすべきは、常に弱者側、声を上げられない側でなければならない、と思っています。

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